2月にベトナムのニャ・チャン、オーストラリアのダーウイン、ベトナムのフエ、7月にスロベニア、8月はトルコのケメル、そして今年最後の旅行、かつ40カ国目の節目としてチュニジアを選んだのは前にも書いたように、30数年前シシリー島へ行ったときの体験で一度行ってみたい思い続けていたことと、暖かく明るいところへ行きたい、物価の安いところへ行きたいなどの条件から必然的に決まってきました。
今回の旅行もExpress Toursというロシアの旅行社のパッケージです。航空券とホテルだけで、現地での小旅行や観光は現地に着いてからたくさんのメニューの中から選んで申し込むことができます。
飛行機はNouvelairというチャーター便専門のチュニジアのエアラインのA320、目的地はMonastir空港、宿泊はMahadia、チュニスの南200キロほどのところにあるリゾート地です。
空港に着くとExpress Toursと書いてある案内窓口があり、そこで旅行のチケットを見せると何番のバスに乗れと指示される。メルセデスの大型観光バスが待っていた。
満席のエアバスA320からこのバスに乗ったのはたった数人だけ、しばらく待つとまた数人づつ乗ってくる。最終的には30人ほど乗合わしたところでロシア人の旅行社のスタッフが乗り込んでバスはスタートした。後で分かったがこのバスにはキエフ、モスクワ、サンクトペテルブルグ、その他のからの客が乗った。
一時間半ほど走ってMahadiaに着く、いくつかのホテルに止まっては客を降ろしていく、私のホテルは我々だけでした。
ようするに、同じ飛行機に乗っても目的地はばらばら、同じバスには各国、各地からの客が乗り、その客の宿泊先もばらばら、なかなか面白いシステムになっている。
<カルタゴ>
チュニジアは紀元前何年かカルタゴが興隆していた地で、昔読んだ歴史本によれば当時ローマは新興国でフランス、ドイツあたりはまだ未開の地だったころ、強力なカルタゴ軍は度々ローマを脅かしていた。
何度かの戦でとうとう新興国ローマに破れ、その後はローマ帝国の支配下に入る。
現在残っている遺跡はそのローマ帝国時代のものばかりです。
その後さまざまな変遷を繰り返し、現在のチュニジア人は90%以上アラブ人です。
街で見る若い女性の美女の比率はかなり高く、30数年前シシリー島で出会ったチュニジア娘の記憶は間違いでなかったことが確められました。
<チュニジアの鉄道と道路>
鉄道が衰退している国が多い中でチュニジアの鉄道は元気!
北の方には標準軌道もあるようですが、私が見たのは全て狭軌でした。南アフリカ同様1メートルゲージ、日本のよりも67mm狭い、電化されている部分とディーゼル部分があり、地下鉄でもないのにメトロとよばれている。チュニスには路面電車が走っている。街の中を長い編成で走っている風景はイスタンブールと同じです。
道路はフランスの植民地時代に骨格が出来ているので、完全にフランス風、交差点はすべてロータリー式、ベトナムと同様です。
郊外は100キロぐらいで流れていますが街に入ると50キロ制限、幹線道路でも横断歩道の前後はハンプ(凸部)があり、速度を落とさせる。
交通警官の多さが目に付く。
“風の旅人” として多くの伝説を作ってきたデュエルン・レーフェンス。 2009年4月、デュエルンは愛車 “轟カル号” と共に再びウクライナのキエフへ。 ジオポタ・キエフ支部再始動! Part1は、http://geopottering.com/etc/kiev/